葛西城跡 (葛西城址公園 / 御殿山公園)

葛飾には、かつて城がありました。

それは葛西城と呼ばれる城です。正確な築造者と築造年代については不明とされています。一部、室町時代に関東管領だった上杉憲顕が築いたとう説もあるようです。

葛西城は現在は全く形跡が残されておらず、その場所には環状7号線が通り、東側が葛西城址公園、西側が御殿山公園という2つの公園になっています。

まずは東側の葛西城址公園です。

本丸跡の一部があったのがこちら側のようです。でも、知らなければ何の変哲もない普通の公園にしか見えないです。
そして西側の御殿山公園です。
こちら側も見た目は普通の公園です。
御殿山公園には、葛西城跡の解説が建てられています。
 葛西城は、中川の沖積微高地上に気付かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。
 築造者と築造の年代については不明であるが、天文七年(1538)二月には、北條氏網によって葛西城が落城されたとう記録(『快元僧都記』)があり、この後、葛西城は後北條氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。
 後北條氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩りの際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。
 この葛西城が再び注目されるようになったのは、昭和四十年代後半のことである。昭和四十七年から発掘調査が行われ、その結果、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。
 東京都内には、中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないことから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は、発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である。
こちらの公園には「青砥藤綱城跡」の石碑も建っています。

さて、解説にもありましたが、葛西城の発掘調査が行われたのは昭和40年代の後半です。実はこれ、環状七号線の道路建設に伴うもので、調査後は「埋め戻し保存」とされました。簡単にい言えば、地中に埋め戻してしまって上に道路を通してしまっているのです!! ここをよけて道路と通して城跡として保存するとか、そういう風にして欲しかったです。環七が通っている限りは城跡を見ることは出来なさそうです。半永久的に無さそう...。

小泉元首相で話題になった日本橋の上を通る首都高速などもそうですが、もったいないというか、虚しいというか、高度成長期といわれた時代の負の遺産という気がします。

■ 葛西城址公園

   東京都葛飾区青戸7丁目28-17

■ 御殿山公園

   東京都葛飾区青戸7丁目21-7

0コメント

  • 1000 / 1000